札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子



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◆「この子の名はヨハネ」
生まれて8日目は、ユダヤ教では割礼を施し、そして命名する日です。集まった人々は、この子の名は、父親の名を受け継いで「ザカリア」だとてっきり思い込んでいました。この子もまた父親と同じ祭司の道に進んでいくのだと。ところが人々の予想に反し、エリサベトは、「名はヨハネとしなければなりません」と応えました。驚いた人々は父親に確かめました。するとザカリアもまた、板に文字を書いて示しました。「この子の名はヨハネ」。それはあの日天使から予め告げられていた名前でした。ザカリアは、この子の誕生に至るすべての出来事がただ神のみ旨に拠るものであるということを信じ受け入れたからこそ、そう記したのです。両親となった自分たちには、この子を養い育てる使命はあるけれど、この子の人生を決定し、導くのは神様である。親の期待や想定、あるいはこの世の常識・習わしというものによって決めつけてはならない神の御業としてこの子は生まれ、そして神の導きの中を生きていくのだ、その神への信頼の証しが、「この子の名はヨハネ」という文字です。
◆数えよ、主の恵み
ヨハネ、その名は「主は恵み深い」という意味です。「主は恵み深い」、その名はザカリア自身の実感のこもった心からの告白となったことでしょう。その時、ザカリアは長い沈黙から解き放たれ、ついに口が開かれ、舌がほどかれ、言葉を発することができました。何を話したか。これまで長い間辛抱しつづけてきた自分の思いの丈をストレス発散とばかりにしゃべり出した、というのではなく、ただただ神への賛美の言葉が溢れたのでありました。「人間の魂が神を崇める時、それは神の御業である」(ルター)。その賛美の様に、近所の人は恐れを抱きました。そこに神の御業そのものを見たからではないでしょうか。
賛美に満ちたザカリア、その原動力は神の恵みです。そしてこれは私たちの話です。わたしたちは不満を数えることは得意で、神様から頂いているはずの恵みを数えるのは下手です。不満はつぶやきとなり、人のあら探しばかりしてしまう。それでは賛美の声はおのずと小さくなりましょう。詩編103「わたしの魂よ、主をたたえよ、主の御計らいを何一つ忘れてはならない」(口語訳:すべての恵みを心に留めよ)」。日々どんなに神の恵みと計らいによって生かされているか、その一つ一つを味わい見るようにして、正しく数える時、その感謝が賛美に現れてきます。神様は、飼い葉おけにキリストを与えられたではありませんか。誰も顧みないような、つまらないところ、何も有難いと思わないようなところ、そこに実は神の配慮が、味わい見るべき恵みがあるのです。そうして神がこのわたしを忘れてはおられず、共におられることを知るのです。
◆イエス・キリストー永遠の神の言葉の現れ
ザカリアがここで歌っているのは、「神は我らを覚えていてくださる」「訪れてくださる」という約束に対する希望です。人間の口約束ならば、いつの間にか「あの話はなかったことに」となるかもしれません。人間の言葉、どんな雄弁もどんな約束も永遠ではないのです。しかし、神は、わたしたちが神を愛する時も、忘れてしまう時も、人生に一所懸命に取り組んでいる時も、途方に暮れる時も、暗闇と死の陰に座している時も、私の神でいて下さること、それだけは絶対に変わらないのです。神はあなたを忘れない。「草は枯れ、花は散る。しかし神の言葉は永遠に変わることがない」(Tペトロ1:24)のです。
そして、イエス・キリストこそ肉となって現わされた神の言葉です。神は、イエス・キリストの歩み、十字架の死と復活を通してご自分の語るべきみ言葉の一切を語っておられます。それは長い言葉ではありません。たった一言、「神は愛なり」です。その一言こそが一切であり、完全です。神が愛の神でいて下さる、そこには私たちの側の正しさや功績や主張といったものが入り込む余地など一つもありません。ただ、この神の言葉が、今日、私たちの只中に深く完全に打ち立てられているのです。
◆ほめたたえよ(ベネディクトゥス)
今日、この世界全体がまるでボロボロの飼い葉桶のようであっても、「私はあなたを愛する」との主の言葉が、永遠に私たちの内に全うされているということを深く沈黙の中で見つめる時、私たちの舌にもまたザカリアと同じく心からの賛美が満ち溢れてくるのです。
人の言葉と力が物を言い、失望や恐れが覆う世にあって、「一体いつまで続くのか」というやりきれない苦悩と無力さを覚える中で、「暗闇と死の陰に座している者たちが照らされ、我らの歩みが平和の道へ導かれる」(79節)その時を信じ、今日ザカリアのように口を開くのです。主をほめたたえよ、主はその御業を成し遂げられる、と。
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