札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子



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■あなたがたには、尚更のことではないか
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。
ここで主イエスは物質的問題以前の「命そのもの」、「体(存在)そのもの」という人間が自らではどうすることもできない本質的な事柄について語られます。即ち、命・存在を愛し、生かしてくださる神という絶対的真理と、この神への信頼という生き方についてです。食物や衣服は当然必要なものですが、それらがそもそも一体誰によってもたらされるものであるのか、そこに込められている神の愛と恵みという事実を見つめることの大切さが教えられています。
空の鳥や野の花にさえ創り主の愛と配慮が込められているならば、「あなたがたにはなおさらのことだ」と言われるのです。これは決して誰も否定し覆すことのできない事実です。この事実を繰り返し確かめながら歩むことは大きな恵みです。
■「明日自らが思い悩む」
「明日のことまで思い悩む」というのは、つまりは「明日のことは自分の力でなんとかするものなのだ、自分の命は自分のものなのだ」という考えに基づいているということでしょう。それは自立した考えのようで、実は命の主である神を脇に置き、自分が命の主人となってしまう、それこそ人間の罪というべき危うさを秘めています。悩むべき範囲・分というものを踏み越えてまで思い煩うことは、根本的な過ち、的外れに陥るのです。主イエスは、「明日のことは、明日自らが思い悩む」と言われます。「明日」というものに人格はありませんから、「明日自らが思い悩む」という表現は奇妙です。しかし、これを命の創り主である神があなたの明日において真実な方として深く関わっていてくださるという意味で受け取るならば、「明日自らが思い悩む」とは、「神自ら」が思い悩んで下さるということであり、それは神があなた一人ひとりのために思いを様々に巡らせ、心を配ってくださっているということです。
「明日がいかなるものであろうとも、わたしはあなたと共にいる、わたしがあなたを担い背負い歩んでいく、決してあなたを忘れ見捨てはしない」、その約束があるのです。この約束は、死においても空しくならず、むしろ死を越えて永遠のものであるということを、神はキリストの死と復活を通して示してくださいました。それゆえに、わたしたちは自分が神のものであり、この愛の中に生かされて、この世界がそれでも生きるに値するものであることを知るのです。このことを見失わせてしまうほどに思い悩み過ぎてはならないのです。
■「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」
「何よりもまず」です。つまり、このことを忘れたらすべてのことが的外れになっていってしまうのだ、ということです。「神の国」と「神の義」を求めるとはどういう意味でしょうか。「神の国」、これは先週まで何度もお話してきました「天の国」「神の支配」ということです。神の愛の支配の中で生かされていることを知ること、そして、そこで「神の義」、すなわち、神様が私に求めておられる正しい生き方とは何か、真実な生き方とは何かを求めながら生きていくことです。
例えば、わたしたちは、主の祈りの中で「日用の糧を今日与えたまえ」と祈ります。それは「明日も、来月も、来年与えてください」という祈りではなく、「この日一日の糧」を願う祈りです。つまり一日一日が、神の愛と配慮の中で生かされているものであることを確かめるのです。主イエスは、自分の明日を必要以上に思い悩むことよりも、今日ここにある主の恵みを見つめ、信頼することを求めておられます。そして、「糧を与えてください」と祈る時、その糧が自分だけのものではないということ、自分と同じく神から「あなた方には尚更のことだ」と呼びかけられ、愛されて生きている他者を知り、自らの思い煩いをもたらす利己的な思いから解放されて、これを分かち合い、必要を満たしあって今日を共に生きることが求められています。
今日は、収穫感謝礼拝です。「収穫感謝」、それはわたしたちが皆、神に愛され養われ生かされている者であるということを思い起す日。そして、わたしたちが互いに分かち合う者としてその存在をこの世界に与えられていることを思い起す日です。
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