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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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◆天の国のたとえ
主イエスの宣教活動は、「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉を第一声として始まり、世の人々に天の国、つまり「神の愛の支配」を告げ知らせ、現わすことであったと言って過言ではありません。天の国とはどのようなところか、誰がそれを見出すことができるのか、天の国に生きるとはどういうことなのか、マタイによる福音書では様々な観点から語られています。そこで度々用いられるのがたとえ話です。
ここでも、主イエスは「天の国は次のようにたとえられる」と前置きして話し始めています。「十人のおとめのたとえ」では、ともし火を保つために予備の油を用意していた者たちとそうでなかった者たちとが対比的に語られています。その最後で主イエスは「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言いました。要するに、「天の国」というものは、あなたがたにとって思いがけない時、思いがけないところに現われるのであるから、よく注意していなさい、備えていなさいという教えです。

◆129回目のクリスマス
教会では既に今年のクリスマスに向けて計画が進められています。クリスマスはオリンピックのように4年に1度というものではなく、毎年やってきます。今年はお休みしてゆっくり寝よう、ということにはなりません。毎年迎えることに意義があるのです。クリスマスは、かつての主イエスの到来(降誕)を思い起す時と同時に、主が再び来られるその日、その時に備えて、目を覚ます時だからです。主が来られる時、それを遠い未来だと勝手に思い込んでうかうかしてはいられません。主イエスは「いと小さき者を受け入れる人は、わたしを受け入れているのだ」、「2人または3人がわたしの名によって祈るところには、わたしもまたいるのだ」、「世の終わりまであなたがたと共にいる」と言われました。主の訪れは実に目の前に見いだされるのです。クリスマスの夜、闇の中で輝くろうそくの光を見つめながら、「実にこの闇の中に、この絶望の中に、インマヌエル、主は共におられるのだ」、「天の国は、神の愛の支配はここにあるのだ」という事実に目を覚ますのです。毎年クリスマスを迎える意味はそこにありますし、本当は毎日が主を待ち望み、天の国に備えるアドヴェントであるという意識が大切なのです。

◆わたしはここにいます。あなたは?
讃美歌21-563番「ここにわたしはいます」、この歌はスコットランドの社会福祉施設の要請によって、その年のクリスマス礼拝で歌われるために書かれました。「ここに私はいます」、「ホームレスの眠る街に」、「凍える子の涙に」、「仕事さがす人々の列の中に」、「変革をよぶ人々に」。そして、各節の終わりに「あなたは?」と問いが繰り返されます。厳しく批判し、駆り立てるのではなく、「あなたは、今み言葉を聴いて、それを行動に移す気持ちがありますか?」として静かに問いかけてくるのです。
4節の歌詞はこうです。「共に食卓囲み、パンを分かつ群れの中。共に私はいます、み言葉に生きる人と。あなたは?」。これは教会への問いかけです。教会で礼拝が守られ、主の食卓を囲む聖餐が行われ、わたしたちが互いに主イエスの命に与り、主の愛において一つであること、祝福も痛みも分かち合って生きる群れであることが確かめられる、そこで主は言われるのですのです。「み言葉を生きる人と共にわたしはいます」と。礼拝を守り聖餐を守ってそれで終わりではなく、あなたはみ言葉を聴くだけでなく、これを生きる者となる、すなわち他者と祝福と痛みを分かち合って生きる、ひとちぎりの愛に生きる者となるように主は私たちを招かれます。天の国はそこにあるのです。

◆「エデンの園追放」と「天の国への招き」
善悪の知識の木の実を食べてしまったアダムは、自分が裸であることを恥じ、いちじくの葉で身を覆いました。神様から「あなたはどこにいるのか?」と呼びかけられても、彼は恥ずかしくて姿を現すことができなかった。この物語の結末は、アダムとエバのエデンの園からの追放でありました。アダムとエバがその罪のためにエデンの園を追放されたのに対して、主イエスは、私たちを追放されるのではなく、「あなたはどこにいるのか」と隠れている私たちを見つけ出し、そして天の国に生きるように招かれます。
アダムによってこの世に罪と死が入り込んだとするならば、イエス・キリストによってこの世は赦しに生かされ、そして命の道へと導かれるのです。「わたしに従いなさい」と言われる主は、日々「わたしはここにいます」「あなたは?」と私たちに静かに問いかけながら、わたしたちを「天の国」に生きるもの、すなわち、他者と共に「神の愛の支配」を生きるものとしようと導かれます。その呼びかけに耳を澄まし、目を覚まし、灯をともしているものでありましょう。

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