札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子



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◆ポイント不足?
「永遠の命」を求める金持ちの青年。それは彼が自分の前途を突如として妨げ得る死を恐れ苛まれていたということでしょう。自分の富で解決することができないこの問題をどう克服できるのか、その問いにイエスは十戒をもって応えました。「殺すな、姦淫うるな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、隣人を自分のように愛せ」と。彼にはこの掟を忠実に守ってきたとの自負がありましたが、それでも「まだ欠けているものがあるのではないか」との不安、死への恐れは拭えませんでした。そこで、主イエスは彼に言いました。「もし完全になりないのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。彼は、愕然としてその場を立ち去っていきました。それだけは受け入れることができなかったのです。彼にとって、それは永遠の命を得ることではなく、死ぬことに等しかったということでしょう。
もし、この時、彼が主イエスから言われた通りにしたらどうだったのでしょうか。彼は永遠の命を得たという平安に浸ることができたでしょうか。そうは思えません。きっと、なおも足りないへの不安を払拭できないままだったことでしょう。善行や努力によってはいつまでも満たされることはないのです。それこそ、「らくだが針の穴を通る」ほどに難しい、ゴールの見えない悩ましいものとなるでしょう。
主イエスが言われた「天に富を積む」という言葉を、「神の前に功績を積む」ことのように誤解してはなりません。主イエスは、そのような行いこそ永遠の命のために必要な「ポイント」「ノルマ」「手段」だとおっしゃっているのではないのです。
◆あなたの命を生きよ
金持ちの青年に問われている最も重大な問題は、永遠の命を獲得できるかどうかではなく、「いま、ここであなたが本当にあなたの命を生きているかどうか」なのです。「殺さない、姦淫しない、盗まない、偽証しない、父母を敬う、隣人を自分のように愛する」そして「貧しいものに仕える」、それは永遠の命を得るための手段ではありません。そのように他者の命を尊び、分かち合って生きるところにこそ、あなたの命があるのだということを教えているのです。自分が与えられ置かれている日々において、あなたがあなたの命を使うこと、神に創られ愛されすべて神によって生かされてあるそのあなた自身を用いて、他者と共に生きるところ、そこにこそ、まことの命の輝き、喜びがあるということです。
◆天に富を積む生き方
ルカによる福音書12章には、「愚かな金持ちのたとえ」があります。このたとえ話を語った主イエスは言われました。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこの通りだ」。
命というものは神から与えられ、神によって取られるもの、すなわちすべては神のものであるということを忘れて、まるで自分が命の所有者であるかのように錯覚し、貪欲に陥ることの愚かさを教えています。それはどんなにこの世的に豊かでも、神の前ではなんと貧しいこと、と。「死」は、人間がそれ自身ではなんら持ちえない無力な存在であるということの何よりの証しです。死を恐れ、死を拒んでいたこの金持ちの青年もまた、自分の命にしがみついているという意味での貪欲さゆえに、見つめるべきものが見えなくなっていました。彼が求めるべきは、永遠の命の獲得方法ではなく、神によって生かされ、遣わされているこの人生において、いかに他者に自分の命を使うか、富を使うかでありました。それが神の前の豊かさ、天に富を積むあり方です。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(Uコリント8:9)。キリストは神の子としての豊かさを捨てて、十字架で「あなたのために何もかも捨てる」という姿を示されました。わたしたちは、ここにおいて、本来塵から造られ塵へと返るべき取るに足らない自分が、神の愛という本当の豊かさに生かされていることを知るのです。この愛に豊かに生かされているものとして、あなたは自分という一線に留まらず、他者に仕えなさい。「わたしに従いなさい」(21節)と呼びかける主がおられます。そこでなおも二の足を踏み、様々に弁解や理屈を重ね、その場から立ち去ろうとする私たちであることを主は知っておられるでしょう。しかし、そこで主は手の傷を差し出して、「私が共にあなたと歩んでいこう」と約束して下さっています。この主の導きに従って、天の国を生きる歩みへと踏み出していきましょう。
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