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奴隷のいでたちで弟子たちの足を洗われた主イエスは、ペトロの問いに答えておっしゃいました。「わたしのしている事は、今あなたにはわかるまいが、後でわかるようになる」。ペトロはこののち、何を悟ることになったのでしょう。思い浮かぶのは、彼が主イエスのことを知らないと三度も言ってしまうことです。主の弟子であるよりも、己の命を守ることが大事だった自分に気づき、その罪の深さに頭を掻きむしってうずくまったのではないでしょうか。

その時ペトロの頭に、足を洗ってくださっているイエス様の姿が浮かんだのではないかと思うのです。顔を上げられない自分の前にひざまずいて、下から見上げてくださる姿です。そこでペトロは、イエス様の「あなたは清い。既にわたしの愛で清められているのだから、足だけ洗えばよいのだよ」というお言葉も、思い出したのではないでしょうか。なぜ足なのか、その時はただ単に、歩き回ったあとで足が一番汚れていたからかなと思えたかもしれませんが、もしかしたら、うつむく自分を見上げる愛の眼差しを、後のペトロが思い出すことができるため、であったのではないかと思うのです。

イエス様は、続けてこうおっしゃいました。「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる」。私たちの過ちを洗い流し、汚れをその手に受け、イエス様は十字架にかかられました。つまり、洗足の延長線上に、十字架があったのです。ですから、もしイエス様が十字架にかからず、ペトロのために命を捨てないなら、ペトロはイエス様と何の関わりもないものとなってしまったわけです。ペトロはきっと、悟ったのではないでしょうか。ひざまずいて、自分の汚れをその身に負って十字架にかかられた主とのきずな、ただそのゆえに、自分はこれからも生きることができる、と。
では、ユダはどうなのでしょう。この直後にイエス様を敵に引き渡してしまうユダもまた、自分の犯した過ちの甚大さに気づいて激しい後悔にさいなまれ、自らの命を絶ってしまいます。彼は、主イエスの下からの眼差しを思い出して、赦しと愛をいただいて、生きていく事はできなかったのでしょうか。

裏切ろうとしている相手に足を洗ってもらうというのは、とても気まずい、できることなら避けたいことです。目をそらしたいユダを見上げるイエス様の眼差しは、愛と哀しみに満ちた眼差しだったことでしょう。弟子たちのすべてをイエス様は「この上なく愛し抜かれた」のですから。愛に溢れ、すべてを見通し、すべてを受け入れ、果てしない哀しみをたたえた眼差しを、ユダは思い出したくなかったのではないかと思えてなりません。思い出したら心が切り刻まれるようで、むしろ脳裏から払拭したかったとしてもおかしくはないでしょう。そこが、赦された者として生き続けたペトロと、生き続けられなかったユダとの違いではなかっただろうかと思うのです。

使徒信条の中に、「主は十字架につけられ、陰府に下り」とあります。九州在住の奥田智史という牧師は、著書「ユダよ帰れ」の中で、主が陰府に降っていったのはユダを迎えに行くためだったと述べています。今日の説教題の「骨まで愛して」という歌の歌詞には、「生きてるかぎりはどこまでも 探し続ける、傷つき汚れた私でも」とありますが、人間でさえそうならば、ましてやイエス様なら、「死んでからもどこまでも、探し続ける、傷つき汚れた私でも、そしてユダでも」と思いませんか。そして陰府でイエス様はもう一度、ユダの足を洗われたのではないかと思えてなりません。それこそがユダに一番必要なことであり、だからこそ、イエス様がなさりたいことだったのではないでしょうか。うずくまって、顔があげられないユダの足をもう一度、心をこめて洗ってやって、下から愛の眼差しを向けて、さぁ、お前も清い、私と一緒に行こうと彼を抱きかかえて、み国に昇られたのではないかと、思えてなりません。迷える一匹の羊をどこまでも探される救い主は、そういうおかたではないでしょうか。イエス様の愛と許しは、それほどまでに深いことを、私たちは信じ、そこに安心と希望を見出して、歩んでいくのではないでしょうか。

信仰を告白し、愛と赦しを受け取っても、晴れやかな顔で胸を張って生き続けられる人はどれだけいるでしょう。自分の汚れに打ちひしがれて、主よどうか清めてくださいと懇願するとき、あるいはペトロのように、私の足など洗わないでください、それに値しない者ですと言いたい時。もう消えてしまいたいと思うような時こそ、イエス様はわたしたちと関わりを持ちたいと願っておられます。何度でも、どこまでも降りてきて、足を洗ってくださいます。そして慈しみのまなざしで下から見上げ、おっしゃってくださいます。あなたは清い、わたしはあなたをどこまでも愛している、と。

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