札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子



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■神の愛の支配
「天の国」とは、神がその愛をもって支配しておられるところという意味です。「天の国は近づいた」(マタイ4:17)との宣言から始まった主イエスの公生涯は、生きて働く神の愛の支配を人々に告げ、そこに生きるものになるための福音宣教でした。
主イエスは「天の国」を示す際、それは「からし種のようだ」「パン種のようだ」(13章31節以下)と言われました。神の支配というのは、人の目には見えず、音もなく静かでありながら、しかし、大きな力と広がりが秘めて働いているのだということです。あるいは、返済できないほど多額の借金を抱えた家来を赦した主人(18章21節以下)や、ぶどう園の労働者全員に1デナリオンを等しく与えた主人のたとえ(20章1節以下)のように、天の国は、皆に等しく、また限りなく愛と憐れみに富んだものだということを示されました。
一方、主イエスは、この福音を妨げ、天の国を人々に見えなくさせる現実とは厳しく対峙しました。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人も入らせない」「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と。
そうして、至った宣教の結末は、十字架の死でありました。それはイエスの宣教の挫折・敗北に見えました。しかし、聖書は語るのです。あの十字架の死こそ、神がこの世を罪と死の支配から救い出してくださった出来事であり、イエスの復活は、絶対的な死の力をもってしても、神の愛を妨げ屈服させることはできないということの証しなのだ、と。イエスの死と復活こそ、神の支配、すなわち天の国を世人に示す出来事だったのです。
■隠された宝
「天の国は次のように譬えられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。
畑に隠された宝とは「天の国」のことです。神がこの世を愛によって支配しておられるという事実です。けれども、多くの人間にはそれが見えないのです。人間に見えているのは地表の収穫物です。そこには良い麦も毒麦も共に育っているのです(13章24節以下)。何が善で何が悪か、それは立場によって異なり見分けがつかず混沌としているのです。そこでは互いに正義を主張し、レッテルを貼り、裁きあっています。人間の主義主張、様々な思惑が渦巻き、それに目を奪われて翻弄される世界。そこでは、神が忍耐と憐れみと愛をもって支配しておられる、この世界が本当は神のものであるという事実(宝)は隠されているのです。
たまたま畑で宝を見つけた小作人は、全財産を売り払って畑ごと手に入れました。長い間良い真珠を探していた商人は、ついに見つけた一粒のためにすべてを売り払って購入しました。この小作人あるいは真珠商人とは、わたしたちのことです。わたしたちは、この世界が、そして一人一人の命が、主なる神の愛の支配の中にあるのだということを見つけたのです。キリストの死と復活を通して神が示された愛と赦しのただならぬ恵みを知ったのです。ある人は、小作人のように全く思いがけない仕方で。またある人は、真珠商人のように長年求め続ける中で。出会いかたはそれぞれあるとしても、神の愛の支配という宝を見つけたのです。絶対的な死にも妨げられない、からし種、パン種のように音もなく静かで、しかし確かに生きて働き、御業を進めておられる神の愛を、何にも優る宝として見つけ出したのです。
■すっかり売り払うとは
見つけたその宝のために、わたしたちもまた、自分の持ち物を「すっかり売り払った」者たちなのです。それは、天の国のために、つまり、すべてを治める神の愛の働きのために自分を献げる、神の働きに参与していくということ、復活の主イエスに従い、この方の言葉と業に仕えて生きるものとなるということに他なりません。
私たちは、「天の国」が、誰も見ていない、気づいていないこんなところにも働いているのだということ、ここにこそ天の国はあるのだということを、目を覚まして見つけ(マタイ25章1節以下)、タラントンを用いていく生き方(同14節以下)へと日々招かれているのです。
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