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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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◆安息日
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(十戒)。
バビロン捕囚から解放されエルサレム再興に取り組んだユダヤ人は、安息日と割礼を守ることを通して、「神の民イスラエル」としての民族的・宗教的アイデンティティを保ちました。ユダヤの格言に「ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、安息日がユダヤ人を守った」という言葉があるそうです。安息日を守ることで、ユダヤ人はユダヤ人であり続けることが出来たということです。わたしたちもまた、主の日の礼拝の営みを通して、わたしたちが互いにキリスト者であるということの自覚を保っていると言えます。イースターやクリスマス、ペンテコステといった祝祭日、レントやアドヴェントといった期間もまた、教会の一年間のサイクルとしてあります(しかし、礼拝を守るのは、掟のように強いられたものだからではありません)。ここで共に礼拝という捧げものを捧げ、神の導きを覚え、神の愛の内に安息し、そして新たな革袋とされ、福音を新しいぶどう酒とし、神の民として一週間へ歩み出すのです。
しかし、もしこれが厳めしい掟となって、これによって人を選別したり裁いたり、人の信仰や思想を統制するものとして働いたらどうでしょう。明治以降、天皇を頂点とした「国体」を護持するため、様々な時節が記念され(紀元節、天長節、新嘗祭…)戦時中は、教会の礼拝にさえ、国民儀礼が入り込みました。
ユダヤ教における安息日もまた民を統制する掟として機能しました。気づけば、安息日を厳守することが目的となってしまう、とても息苦しい原理主義に陥っていきました。
弟子たちが麦の穂を摘んだこと、イエスが病人を癒したということが安息日規定の違反として咎められました。しかし、主イエスはあえてそのように行動することによって、安息日の本来の意義を示そうとされました。空腹で悩む者、病気で悩む者に対して本来、安息日とは何であるか、神の御心はなんであるか、安息日だからこそあなたに求められている必要なこととは何かを問うたのです。

◆真ん中に立ちなさい
手の不自由な人が会堂におりました。この人は、たまたまそこに居合わせたのではなく、イエスを陥れようとする人々の道具とされていたのです。この陰湿で狡猾な罠に対し、イエスは公然と対峙します。「真ん中に立ちなさい」と呼びかけました。イエスは、この人を秘かに癒して帰らせるのではなく、会堂の真ん中で神の御心の何たるかを示すのです。この後、癒しのしるしを見たファリサイ派の人々が、ヘロデ派の人々とイエス殺害について相談したと記されています。この場面で既にイエスの十字架の死が語られ始めているということを見つめたいと思います。「真ん中に立ちなさい」と呼びかけ、この人と共に人々の真ん中に立つイエスの姿は、ゴルゴタの丘で罪人たちの「真ん中」で十字架につけられた姿に通じます。一人の命をどこまでも尊び、愛をもって担い、自分を棄てられた主イエスの十字架の出来事が示されていると言えますし、そこにわたしたちすべての者にとっての真の安息が示されているのです。

◆手を伸ばしなさい
「安息日を守ってこれを聖別せよ。…あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手とみ腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」(申命記5章)。安息日は、神の解放の恵みを覚え、奴隷も寄留者も家畜も土地も皆が安息を得る日です。苦しみの中にあった民に神が御手とみ腕を伸ばして救い出され、安息を与えて下さったことを心に留める日です。この安息日の本来の意味を取り違えて、ただいたずらに厳守するだけの安息日に何の意味があるのか、まして苦しむ人々を利用するような行為をどうして神が喜ばれるか、イエスは言うのです。
「手を伸ばしなさい」。イエスは怒って、一人一人を見回し、彼らの頑なな心を悲しみながら言われたと記されています。人々への憤怒と悲痛の表情、それは一人の命をどこまでも愛し尊ぶ神の愛から出たものです。
「手を伸ばしなさい」。安息日の会堂に響いたその声が、今日この礼拝堂にも響いているのです。主イエスからそう告げられているのは、わたしたち自身です。本当に癒されるべき不自由な者とは、私たち自身です。「その手を伸ばしなさい」。私たちは、どこに誰に向かって伸ばすべきでしょうか。得るため、奪うための不自由な手ではなく、人に与え、招き、支えるための自由な手へと癒され、他者と共に主に愛され、生かされていることに安息の一息をつくものとなっていくために、ここに集められ、また遣わされていくということを覚えたいと思います。

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